子供と一緒に育っていく私。ゆっくりじっくり歩いていこう


by fairmoon
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カテゴリ:聖書( 7 )

今日は教会

今日は夫が休日出勤で、私と娘たちで教会へ行きました。
教会は都心にあるので夫が行かない日はいつもは電車なのですが
今朝は天気が微妙・・・帰りはドロップが寝る確率が高いので、雨だと困るな~・・
と迷い、思い切って車で行きました。
(無事たどり着けてよかった・・・)


このごろはいつも子供の教会(子供たちに聖書を読んでくれて、それに関した遊びをやってくれる)がある日に行っていたのですが今日はそれがない日。娘たちの塗り絵などを用意して、礼拝に出ました。

今日は久しぶりに説教が聞けて、嬉しかったです。

今日の聖書の箇所は ルカによる福音書10章25~37節(以下引用)

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。

イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』

さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」

律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」




「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」

隣人になる・・・本気でその人のことを思い、その人のために行動する・・・その人の友となる。

今までこの箇所を読むときいつも「私はこの倒れた人の友になれるか。そういう風に行動できるのか」と思いつつ読んできました。
でも今日の説教で牧師は「このサマリア人のとった行動は、『神様はこのような方である』ということを示しています。倒れた人は私たち自身、神様がこうして私たちの友となってくださるのです」と話されました。


そうか!・・・・と、まさに目からうろこが落ちるような気持ちがしました。

もちろん私たち自身の行動もここでは問われているのだろうと思います。
でもそれだけではなく、神様がどのような方かを示している。

そうだ、神様はそういう方だ。私の真の友として寄り添ってくださる。



子供たちが後半飽きてきてドタバタしだしたのを抑えつつ、だったのですが
礼拝に出られてよかったなー!としみじみ思いました。今日このメッセージを聞くことができて本当によかったです。




礼拝後は教会で用意してくださったお昼を食べて、コンビニでおやつを買って帰ってきました。(ドロップは教会のお昼を、また食べ過ぎってくらい食べていました・・ごちそうさまでした^^)

子供たちも教会へ行くのはなかなか楽しいようです。今日のようにとくに何をして遊んだわけではなくても、けっこう楽しんでくれているようなので、嬉しく思っています。

8月はいつもの家庭集会をちょっと夏バージョン?にして、屋外(広い公園)でやる予定なので楽しみです。

やっぱり、礼拝に出てみ言葉を聞くことは大切なことだな、と改めて思いました。
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by fairmoon | 2007-07-22 22:30 | 聖書

8月の家庭集会1

昨日は久しぶりの家庭集会でした。
4月の初め、スゥともう一人のお友達の入園直前にやってからしばらく中断していました。

約4ヶ月ぶりに会う子供たちはとっても成長していました、
親たち&牧師先生も久々の再会、とても嬉しく思いました。

子供たちはすぐに遊び始め、親たちは聖書を読んで話しました。
聖書の箇所はマタイによる福音書18章21節~35節「仲間を許さない家来のたとえ」の箇所です。(話した中身については後日ゆっくり書きたいと思います)


親たちの時間のあとみんなでお昼ご飯。みんなでおかずを1品持ち寄るのですが、私以外の2人はとてもお料理上手なのです。なのでいつもとてもおいしいお昼です^^

みんなでわいわいと食べるお昼は楽しいです。
そのあと牧師が子供たちに絵本を読んでくれて、いつか遊びに突入。子供たちは牧師に群がって大騒ぎで遊んでいました。(先生、ありがとうございます☆^^)



牧師がこの夏に参加された教会のキャンプの話をしてくださって、その中で「子供のうちから教会に連なることの大切さ」を言われていました。

中学生くらいになるとなかなか日曜日に教会へ来られなくなる。でも、教会にお友達がいることでつながっていられる、ということもある。

子供のうちから教会につながっていることができるのは恵みだと思います。
私はなかなか日曜日に教会へいけないでいるけれど、うちくらいの小さい子供は親が連れて行かなければ教会へ行くことはできないのだし・・・教会でも子供を受け入れる準備をしてくださっているのだから、もっと教会へ足を向けなければならないと思いました。せっかくこの家庭集会でお友達ができたのですから・・


牧師が先に帰られてからも母3人は話が尽きず名残惜しかったのですが、夕方あまり遅くなる前に帰りました。
子供たち3人はいつまでも「バーイバーイ!!」と手を振り合っていました

親にとっても子供たちにとっても、この会はとても楽しみな大切な会です。
次回も楽しみにしています。


会の終わりごろ、「ああ、今回も色々話せて、なんか心に詰まっていたものがスポッととれたような感じ^^」「ほんとだねー」などと話していたら、一人が「こころの毛穴すっきりパック♪」と言いました。
みんなで大笑いしながら、 (でもほんとにそうだなぁ^^)と思いました。


それから・・・メンバーの一人Kちゃんが、子供たちにワンピースを縫ってきてくれました!(Kちゃんには以前にも娘たちにおそろいの服を作ってもらいました)
e0004539_1423156.jpg
着てみたよ♪すごく似合っています^0^
Kちゃんほんとにありがとう!こんなのを着せると、リゾート地へ行きたくなります。
リゾートじゃないけど、新潟の帰省に持って行くよ!
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by fairmoon | 2006-08-09 14:06 | 聖書

2月の家庭集会

一昨日、2月の家庭集会を持ちました。


1月も・・・あったのですが・・・
記事にまとめないうちに2月がやってきてしまいました(汗)
近いうちに1月のも記事にしようと思います。
薄れないうちに2月のを先にアップします。

長いですが・・・
ぼちぼちと、読んでいただければ嬉しいです。



マタイによる福音書5章17節~20節

「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。・・・」



「律法」。
これは、当時の人々が生活の中で守るべきこととして定められた数々の教え、決まりごとのことです。
モーセの「十戒」は有名ですが、十戒のような道徳的なこと(「人を殺してはならない」「盗みをしてはならない」「両親をうやまえ」など)や、「安息日を守る」(安息日には料理をしたり、働いてはいけない)というような生活全般にわたる決まりごとなどです。

この律法が、しだいに本来の意味を失って人々の生活を縛るようになっていました。
ユダヤの人たちは十戒を含めて600以上の律法を持っていたそうで、それを守りきるのは本当に大変なことだったと思います。
また「律法学者」という職業の人もいて、その人たちが生活の中で起きるさまざまなことを律法に照らして判断する・・というようなこともしていて、それによって、人の善悪を裁くということも起こっていたようです。


本来、神様から与えられた生活の導きであったはずの律法が、その意味を失って、言葉じりだけをとらえたものになってしまった。そのことで、人々はそれに縛られ苦しんでいました。
例えば、「安息日には道具を使ってはいけない」「働いてはいけない」という律法を言葉どおり守ろうとした時、病人が出たらどうするか・・・「働いてはいけない」ゆえに、何もしないで放っておくのか。
そういった言葉を守るだけの、そのために人間が苦しむだけの律法では意味がないのです。
イエス様はそのような状態を突き崩すべく、さまざまな場面で戦ったことが聖書には書かれています。

でも、この「マタイによる福音書5章17節~」では、イエス様は「律法を廃止するために来たのではなく、完成するためにきたのだ」と言われます。


律法を完成する。



律法と戦ったイエス様は、「人間が、中心なのだ」という思いで戦われました。
律法と戦ったと言っても、律法を全て崩してなくしてしまおうとされたのではありませんでした。
その本来の意味を取り戻して、人々が心からその意味に納得して守ることのできる律法を完成させようとされていました。

それはどうやって完成されるか・・・

私たちが、神様からいただいた恵みに気づき、心の中にその恵みへの感謝、喜びがわいた時に、本来の意味を持った律法が生まれるのだと思います。

イエス様は私たちひとりひとりのために、神様の愛を伝えにこられた
わたしたちが誰でも抱えている罪を許されるために、イエス様がその身をささげてくださった。
そのことを知る時に、私たちの心の中でイエス様が持ってこられた恵みが目覚めるのです。


許されること
神様の前で、、ありのままの自分で、よしとされること
愛されること・・・

この恵みに本当に気づいたときに
私達の心の中には、新たな律法が芽生えるのだと思います。


それこそが、完成された律法。
神様の愛のもとで生きる、そのための律法です。


***

このような話をしていて、友人の一人が話してくれたこと

上の子(男の子)が妹を叩いたりすることが続いて、はじめは
「叩いちゃだめでしょ!」「小さい子をいじめちゃだめ!」と強く叱っていたけれど、ちっともおさまらなかった。
彼女は「親業訓練」という講座を受けていたので、それに習って、ただ強く怒るのではなく「妹を叩くと、お母さんは悲しいよ」というような、自分の気持ちを伝えることを続けてみた。しばらくそれを続けていくうちに、いつの間にかお兄ちゃんが妹を叩くのをやめていた。たぶん、彼自身の中でふと「妹を叩くのはいけないことなんだ」という気持ちが湧いたのだと思う。子ども自身の中で、気づきと納得があったのだと思う。


また、私もこのところ考えていた「怒り」というものについて、

何か腹の立つことが起こったときに、私は「私の言ってることは正しい!」と信じて、それを相手に主張してきたけれど、確かに理屈では正しいけれど、その場の状況や、相手の事情、その他諸々のことを全部ひっくるめて考えたときに、本当に私の「正論」は正しいのか・・・その「正論」を振りかざすことがいいのかどうか?・・ということを話しました。


それについて、牧師が話してくれたこと。

牧師自身が何か意見を言うときなどに実践していること、「識別と選択」。

「この考えは、良い霊から出ていることだろうか?悪い霊からでていることだろうか。
 これを言うことによって、神の国が進むことだろうか?」

ということを考え、その時に言うことと言わないこと、自分のとる行動を「識別」し、「選択」する。
ということでした。


「神の国」。神様のみこころ。イエス様を通して私達に与えられた愛。

自分の語ること、行動が、神の国をすすめるものであるかどうか?

自分の心の中から湧いてきた思いには、力があります。
人から押し付けられたのではない、自分の心に照らして納得できたことには、それに伴って行動する力が生まれます。

そういう思いを持って日々の生活を歩む
さらに、その湧いてきた思いを神様の御心に照らす。

このことを、これからの生活の中で心に留めていきたいと思いました。


***

どうも、硬い言葉がいっぱいになってしまいました
もっとやわらかく、わかりやすく書きたいと思いましたが・・・

こんなに長い文章を読んでくださった方に、少しでも、伝わるものがあればいいがと思います。
読んでくださった方、ありがとうございます。


***

この家庭集会をやっている友人宅の近くに、すごくおいしい和菓子屋さんがあります。
いつも帰りにそこでおだんごやお饅頭を買うのがスゥと私の楽しみなのですが、今回は車をちょっと離れたところにしか停められなかったため、行けませんでした。

うーーんがっかり。
ちなみに、これが先月買ったお饅頭です。(じょうよ饅頭が犬の顔になっていました^^ かわいくて、すごくおいしかった)
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また来月を楽しみにしています。
(あっお団子だけじゃなくて。
 集会をですよ!)
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by fairmoon | 2006-02-19 08:03 | 聖書
いつもおじゃましているゆうこさんのブログ「Path」を読んで、
「聖フランシスコの平和の祈り」というお祈りを思い出しました。

私は学生時代、サークルで合唱部みたいなものに入っていて
(音符も読めないんですけど、聞いて覚えて、なんとか歌っていました・・汗)

その時このお祈りに曲をつけたものをよく歌っていました。
この曲が大好きで・・・思い出してとても懐かしくなりました。


 「聖フランシスコの平和の祈り」

 神よ あなたの平和のために 私のすべてをもちいてください
 
 憎しみのあるところに愛を
 争いのあるところに赦しを
 分かれているところをひとつに
 疑いのあるところに信仰を

 誤りのあるところに真理を
 絶望のあるところに希望を
 悲しみのあるところに喜びを

 闇には光をもたらすために


 神よ 私に望ませてください

 慰められるよりも慰めることを
 理解されるよりも理解することを
 愛されるよりも愛することを

 自分を与えて 与えられ
 進んで許して 許され
 ひとのために死んでこそ
 永久(とわ)に生きるのだから

  アーメン


日本語訳はいろいろあると思うのですが、上に書いたのは私が歌っていたものです。


本当にこんなふうに望むことは難しいけど・・・
心からそう願えたら。それはどんなに幸せなことでしょうね。

久しぶりに思い出すことができて、こころにとめておこうと思いました。
懐かしさと共に、新たな気持ちで読みました。
思い出させてくれたゆうこさん、どうもありがとう。
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by fairmoon | 2006-01-24 15:47 | 聖書

12月の家庭集会

マタイによる福音書1章18節~25節

今月は、クリスマスシーズンでもあるので、イエス・キリストの誕生のお話です。

「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」

この当時の慣習として、婚約は法的に結婚と同等のものだったそうです。マリアの住んでいたのは人口150人程度の小さな村で、正式に婚約をしてから一年間はマリアは親元で暮らしていました。

そんな中、マリアが身ごもる。
ヨセフの思いはどんなでしょう。
「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」


「ヨセフは正しい人であったので」とあります

表ざたにすれば、女性が一方的に弱い立場にある時代でもあり、また人口の少ない場所柄マリアがつらい目にあうことはわかっています。
そのため、ヨセフはマリアの妊娠を隠して、また、自分の子でない子供を宿しているマリアと結婚するわけにはいかないので、縁を切ろうとしたわけです。

「正しい人」。
このヨセフの判断は、法律や社会の常識、また人道的な考えからしてもまさに「正しい」・・順当なものだったと思います。

聖書にはあっさりとかいてありますが、実際は色々な思いがうずまき、怒りや葛藤もずいぶんとあったでしょう。
婚約していた女性が誰の子供かわからない子供を宿してしまったわけですから・・
それでもマリアを世間から守ろうとし、自分の良識に照らしてこのようにしたわけです。


しかし、そのとき神の使いが夢に現れます。
そして次のように言います。
「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」


そしてヨセフはその言葉に従います。

ここでも、ヨセフの中にどれほどの悩み、迷いと葛藤があったことでしょうか
いきなり、「その子は聖霊によって宿った」と言われても・・・。ひそかに縁を切ろうとしていたのに。

ヨセフにとって受け入れがたいことを受け入れろ、と言われています。


人は、何かを判断したり意見を言ったりする時、
当然「自分の考えは正しい」と思って行動します。
そのようにして自分の考えを「絶対化」しているとき、それ以外の選択肢はありません。

しかし神様に触れるとき、その考えが「相対化」されることがあります。
これだけが、自分の今の考えだけが唯一の道ではない
新たな道、今まで気づかなかったものの見方・・・そういうものがあることに気づかされる。

ヨセフがとろうとしていた行動は、正しかったかもしれませんが、愛ではなかったかもしれません

続けて、聖書には次のようにあります

「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
 その名はインマヌエルと呼ばれる。』」

「インマヌエル」
これは「神は我々と共におられる」という意味です。

神様が共におられる。
そのことによって、愛が始まります。

この愛が私たちに与えられて・・・日々の暮らしの中でも、新しい気づき、小さな、でも愛の入った行動が生まれますように。

何かあるとすぐに忘れてしまいますが、思い出し思い出し。


会の中で、牧師がさだまさしさんの「生きることの1/3」という歌の歌詞を紹介してくれました


「生きることの1/3」

生きるということの 1/3は哀しみで出来ている
生きるということの 1/3は悔しさで出来ている
残りの1/3はね 笑うことで出来ているはずさ

きっときっと生きることは そんな風なものなんだ
泣きすぎても 悔しすぎても 笑いすぎても きっといけないのだろう

1/3は何処まで行っても 割り切れることがないように
何処まで行っても割り切れないのかな
きっと人を愛しながら きっと人を憎みながら
その手のひらに 最後に残る1/3は きっと笑顔なんだろう

生きるということの 1/3は哀しみで出来ている
生きるということの 1/3は悔しさで出来ている
残りの1/3はね 笑うことで出来ているはずさ




どこまで行っても割り切れない想い。
それを抱えて私たちは生きていくけど、
神様がそばにいてくださることを思い出す時
その割り切れなさもふと胸に落ちる瞬間があるのではないか・・と感じています。

もうすぐクリスマス。
神様と共にいることが始まる日です。
神様と共にいて、愛が共にあることが始まる日。

みんなでお祝いしましょう^^

神様の愛が、みなさんをしっかり抱きしめてあたためてくれますように。
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by fairmoon | 2005-12-09 19:03 | 聖書

11月の家庭集会

「山上の説教」マタイによる福音書5章1節~11節

『幸い
 「心の貧しい人々は、幸いである、
   天の国はその人たちのものである。

  悲しむ人々は、幸いである、
   その人たちは慰められる。


  ・・・・・
  義のために迫害される人々は、幸いである、
  天の国はその人たちのものである。

  わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことで
  あらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
  喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
  あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」』


この箇所は、「山上の説教」といわれ イエスが大勢の群集を前に山に登られ、
そこで語られた説教のはじめの部分です。
「山上の説教」は5章から7章まで(聖書で約6ページ分ほど)にわたる
長いものです。


「心の貧しい人は幸いである」
「悲しむ人は幸いである」

ここを読むと、まず単純に「なぜ」と思います。
幸いではない。悲しく、心が貧しい。

ここでいう「貧しい」という言葉は、
「満たされていない」といった意味合いの言葉だそうです。
心をコップにたとえれば、水がほんのちょっとしか入っていない。
または空っぽ。 スカスカで、さびしい。苦しい。何かに飢えている・・・
そんな感じでしょうか。

その状態が、なぜ幸いか。

それは、コップが空っぽだからこそ、そこに注がれるものが大きいからです。
注がれるもの。神様の愛、慰め。それを信じる心です。



心が満たされていて、幸せいっぱい。
自分自身に満足していて、欠けるところはないように感じている。
そういう時、それはもちろん幸せに感じますが、
そしてそういう幸せを感じることはいけないことではないと思いますが、
そういう時に見えなくなるものもあります。

欠けのない人間などいない。
心に闇のない人間もいない。

でもそれが見えなくなる、忘れてしまう時があります。


苦しいときにこそ、自分自身の姿がよく見えます。
自分の限界を知ることは、
自分が神様とつながっていることを見出すことでもあります。



「心の貧しい人 悲しむ人」は、
その貧しさ、悲しみを満たしてくれる存在とのつながりを
見出せるということにおいて、幸いだと言われるのです。



「天の国」という言葉が出てきますが
これもいわゆる「天国」、死んだあと行く場所としての天国ではなく、
神様のご支配、神様につながる幸いという意味合いだそうです。

死んだあとではなく、生きている今このときに
神様の支配を知ること
今生きているこの世界で、神様に守られ愛されていることを知ること。



今、ほんとうに何かに苦しんで、悲しんで、もがいている人にこういっても
「そんなこと嬉しくはない、今、この苦しさを何とかしたいんだから」
と言われるかもしれませんね。
正直、ほんとうにそうだと思います。
私自身、その場に立ったらきっとまずそう思うだろうと思います。

でも、そこを、そう言わずに、どうかぐっと一歩踏みとどまって
感じてほしいのです


苦しい自分、弱い自分
現実に自分を苦しめている事柄のうしろで、
見え隠れする本当の自分の姿。
今までこの苦しいことが起きるまでは見えなかった自分の姿。


さらにその後ろに、つながっている神様の姿も見つけてください。
大きくあたたかく自分を支えて立っている神様の姿をも


何度でも許され、いつも必ずあなたの味方でいてくれる
強い支えがそこにはあります。
抱きとめられていることをどうか感じて
安らいでくださいね


悲しみの中にいる方たちを、神様がさらに守り慰めてくださいますように。
そしてそれぞれの進む道を整えて、ともに歩いてくださいますように
祈っています。

***


家庭集会が終わって帰るとき、
手をつないで前を飛び跳ねている子供3人の後姿を見ながら

「まだこんなにちっちゃいんだよねえ・・・」と
母親3人でしみじみしました。


いつもは自分と手をつないで歩いている子供を
うしろから眺めて、

「こんなにちっちゃいってことを、時々忘れちゃうんだよね」
と話しました。


明日は(もう今日ですね)、教会で子供の成長感謝の礼拝があります。
私はほんとに久しぶりに礼拝に出ます・・・
子供のおかげで、教会へ少しずつ戻る道が整えられている感じです。
ありがとう、娘たち。

ありがとう神様。
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by fairmoon | 2005-11-13 03:45 | 聖書

10月の家庭集会

子育て中の友人2人と毎月1回やっている家庭集会。
牧師も参加してくれて、大人は聖書を読んで話し、子供達はビデオを見たり絵本や紙芝居を読んだりして、お昼をはさんでほぼ半日をすごします。

3月から始めて、気づけばもう8回目になりました。

聖書を読みいろいろ考えて話す(みんな子育て中なのでいつのまにか子供の話になってたりしますが ^ ^ )この時間は、毎日の育児に追われる日常からちょっと抜け出るという感じで大きなリフレッシュになります。

子供達はそんな母親のおつきあい、といった感じがありますが、毎月会っているうちに仲よくなり自然に一緒に遊ぶようになりました。

毎回、牧師が用意してくれて聖書を一か所読んで それについて話すのですが、今月の内容を書いてみたいと思います。

聖書の解釈はいろいろとありますし ここに書く解釈や感想は、あくまでも私個人のものとして読んでいただければと思います。 まとめ方がへたでわかりづらいかもしれませんが できるだけ書いてみたいと思います。


<マタイ20章1節〜16節>
この箇所は「ぶどう園の労働者のたとえ」などと言われるところで、全部書くと長いので内容をざっと書くと次のような話です。

ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけていった。

そして一日に1デナリオン(「一日分の報酬」にあたる金額だそうです)の約束で労働者をやとい、ぶどう園へ送った。

その後、9時12時3時と出かけていき、同じようにし、
またさらに5時頃にも行ってそこにいた人たちを雇った。

夕方になって賃金を払う時になり、主人は 最後にきた人たちから始めて最初に来た人たちまで順番に、同じく1デナリオンずつ支払った。

最初にきて働いていた人たちが不平を言った。
「1時間しか働かなかったこの連中と、まる一日暑い中を辛抱して働いた私たちとを同じ扱いにするとは!」

主人は答えた。
「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と1デナリオンの約束をしたじゃないか。私はこの最後のものにも同じように支払ってやりたいのだ。」


***
これを読んでまず思ったのは、「初めに来た人たちが文句を言うのも当然」ということ・・・。
自分だって同じように言うだろうなあ〜と。働いた報酬はどうしても「時給」とかで考えてしまいます。多く働いたらその分見返りがほしいし、あって当然。(ないなら働きたくない!)

しかし考えてみると、主人の言っていることも、まあ間違ってはいません。「あなたは私と1デナリオンの約束をしたじゃないか」 約束した通りの報酬は受け取っている。 最初に来た人たちは、おそらく、あとから来た人の報酬を知らなかったら、約束通りのお金を受け取ってなんの不満もなく帰っていったでしょう。

なぜこの主人はこんなことをしたのか?

そもそもなぜ一日に何度も、労働者を雇いに自ら出かけて行ったのか。

夕方の5時頃となれば、もうすぐ仕事の終わる時間。「労働者が足りなかったから」・・ということではないでしょう。
この主人は
「ひとりでも多くの人を働かせて、一日の糧となるお金を支払ってやりたかった」
のではないかと思います。
(この当時の背景として、不況や地主の土地買い占めなどで農民が貧しく、失業や日雇い労働者が多かった)

この主人は、仕事がなくその日の糧も得られない人たちに、一日分のお金を払ってやるために、何度も何度も足を運んだのです。夕方の5時をすぎて「ああ今日も働けなかった・・」と思っていた人たちにとって、そんな時間に仕事を得られたことはどんなにか嬉しかったでしょう。


この主人に、神の姿をみます。

神様がみずから出向いて、私たちを自分のところへ迎えて下さる。

この主人は、不平をいった労働者達に「友よ」と呼びかけます。
仕事がなく苦しい人たちを招き入れ、友になろうとする。

神様が、私たちを呼んで下さる姿です。

初めに雇われた労働者達も、もし自分が5時頃に雇われたのだったら、そしてその時の嬉しさを知ったなら・・・もしほんとうにその身になって考えることができたら、その時はきっと、主人の報酬の支払いに不満はなかったと思います。
私たちが神の考え方に触れることで、価値観は動きます。
神様に招かれ、友とされて 縛られていた価値観から解き放たれることがあります。

これは一つの例ですが
常に求めていた見返りを必要としないでいられる ねたみや嫉妬で喜べなかったことを喜ぶことができる

そういう心が与えられることは、自分にとって本当に幸せなことだと思います。

神様が「友よ」と呼び掛けて下さる声を聞き逃さず
自分もそのような目で周りをみることができたら・・・
そう思います。


***
今回は この「やった分だけ見返りを求める」というところで、
母親3人組は、日頃の子供に対する
「これだけ言ったんだからわかってくれたハズ!」
「こんなに一生懸命作ったんだから食べてくれるハズだ!」
・・・などなどを思い浮かべて、
それぞれが「見返りを求めるジブン」を再確認しました (^_^;

価値観を変える、ものを見る時に自分の立つ位置を変える、というのは
難しいことです。

私は、神様の考えに触れることでその手助けをしていただくんだな・・・と思いました。
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by fairmoon | 2005-10-11 05:17 | 聖書